レンピッカ展 夏木マリ音声ガイド Bunkamuraザ・ミュージアム
3/15の「誘拐ラプソディ」の最終試写に行く前
http://take-it-ez.at.webry.info/201003/article_16.html
Bunkamuraザ・ミュージアムで3/6-5/9美しき挑発レンピッカ展、本能に生きた伝説の画家を見てきました。私は美術館にいくといつも音声ガイドを利用するのですが、驚きました。なんと、ナレーションは女優の夏木マリさんではないですか。
こんなことなら、もっと早くにこの展覧会にくるべきだったと、己の事前調査力を悔やみました。夏木マリ様による音声ガイド作品は28点で約35分。個性派女優らしく、ナレーションするだけではなく登場人物を演じてくれています。とても贅沢な音声ガイドプログラムなので、この展覧会をご覧になるかたは500円を惜しみなく投資して、夏木マリさんとともにこの贅沢な展覧会を楽しみましょう。タマラ・デ・レンピッカをより深く理解できます。
私が気に入った作品は
「シュジー・ソリドールの肖像」
「マルジョリー・フェリーの肖像」
「緑の服の女」
「自画像(シルクスクリーン版)」
「タデウシュ・ド・レンピッキの肖像」
です。
下記は女優夏木マリさんによる音声ガイドナレーションからピックアップしました。この音声ガイドは本当にオススメです。
中国人
「私は心の命ずるままに生きたかった。いつも新しい空気をすって、刺激を受けて生きたかった」と語るタマラ・レンピッカ。
モーレス・ドニとキュビズムのアンドレ・ロート影響を色濃く受けている。
革命によりロシアからパリに亡命
革命刑務所に拘束された後、夫のタデウシュは働こうともしなかった。そこでタマラの心の支えは一人娘のキゼット。
「絵を二枚売るごとに宝石を買い、腕を宝石で埋め尽くす」タマラは自分にそう誓ったそうです。
ロシア人の踊り子
このころ母、祖母、叔母とともにロシアのサンクトペテルブルグに住む。
18歳でタデウシュと初めての結婚。
ロシアバレー団バクストin Parisの舞台美術のような絵画。
モスクアという演目のバクストデザインによく似ている。
初めて聖体を拝領する少女
娘のキゼットがモデル。左上にはそのごの作品によく登場するハトが描かれている。
芸術展で賞をとったこの作品は彼女のお気に入りでもあり、「モンテカルロでアンディ・ウォーホールに会ったとき、この作品を彼もとても気に入っていた」といいます
ピンクの服を着たキゼット
モデルは当然キゼット。隠すように靴を履いていない左足。そして本の上の豪華客船の背景。
キゼットによると「母は実に奔放な生き方をしました」「有名人や貴族とのパーティから帰ると寝ている私を起こして、パーティの話をした」
エリストフ公の肖像
カーテンの置くはフィレンツェの風景に似ている。右下にはレンピッキT.DE LEMPitzki.という男性名でのサインが残されているのは、まだ女性画家の地位が認められていなかったことをあらわしている。
「1920年代、買い物に行く暇すら惜しんでキャンパスに向かったものよ。絵は次から次へと売れ、パリの社交界は私の話題で持ちきりになったわ。そして彼らは私に肖像画を依頼するの。」
タデウシュ・ド・レンピッキの肖像
「彼への思いは悲喜こもごもで、私の胸を離れなかったわ。それでも幸か不幸か、働かない私の夫のおかげで絵を描くという私の眠っていた才能を呼び覚まされたの。」
タデウシュは初めての夫、一目ぼれの恋を実らせて結婚。
この作品は離婚の瀬戸際当時の作品であったため、のちに描かれるはずであったタデウシュの左手と結婚指輪は描くはずであったが未完のままで残された。
自画像(シルクスクリーン版)
緑色のブガッティ「車を緑色にしたのは、奏したほうがよかったからよ」
タマラは黄色と黒の小さなルノーが愛車だった。運転するときは華やかな黄色のセーターと黒の帽子でコーディネートした。
ある日、シャネルに車でのりつけた彼女を見かけたドイツのファッション誌ディー・ダーナの女性編集長はタマラのセンスに一目ぼれして仕事を依頼。
サン・モリッツ
ディー・ダーメの表紙
モデルはレンピッカのアトリエを訪れた女性。
ニューヨーク
1929年NYの摩天楼の無機質さに魅了され作成。キゼットがたまたまタマラの自伝を読んで、探し出した作品のため60年間日の目をみなかった作品。
ルーファス・ブッフの婚約者の肖像画の依頼でNYへ。ロールス・ロイスでの出向かえからホテルサヴォイへと贅沢な接待がされた。
母性
「美術館で見た15世紀イタリアの絵が気に入った」
「私のモットーは、それは模倣しないこと。独自のスタイル、明るい色彩、そしてモデルがもつ、多彩な気品へと戻ること。
モデルのイーラ・ペーロイはタマラの恋人でもあり、娘のイブリーンを産んだばかり。
イーラ・Pの肖像
「私は画家なのですが、あなたをモデルに描かせていただきたいの」
「私はモデル選びには細かいほうで、ピンとこなければ描く気になれなかったわ。モデルのいいところをひきだし、表情、ファッション、背景、全てを吟味して、1つの美をつくりあげる。それが私の芸術だったの」
緑の服の女
キゼットがモデル。
「イタリアではマニュエリズムの絵にすっかり心を奪われてしまったわ。シャープな線、あざやかな色彩、セザンヌのように、どの色も少しずつまぜるような描き方は好きになれなかったわ。私は鮮明な色をつかって、描きたかったのです」
マルジョリー・フェリーの肖像
歌手マルジョリー・フェリーニの二人目の夫の依頼によって描かれた絵。
1930年代はじめ、画家として絶頂期、離婚後はパリメシャン通りに構えた豪華なアトリエはタマラとその作品のための舞台セットのようなものだった。
「最高をきわめること、それが私の目標。仕事をして成功すれば、お金が入る。最高の個展を開き評価されて豪華なドレスを着ることができる。私はそれを実現したわ。全てゼロから、自分の手で勝ち取ったのよ」
カラーの花束
タマラ・レンピッカが愛した花カラー。白は純真無垢を、中央のめしべはどこかセクシャルな雰囲気を漂わせる。相反するイメージが1つになったレンピッカを象徴するモチーフ。
「何度新しい恋を着替えたことか。夜のマチに美しい男とつれだって、でかけたわ。みんな私の美しさと才能をほめたたえたものよ。でも一番愛していたのは夫だけ。何もかも、なげうって、愛人のもとに走るわけではないの。」
シュジー・ソリドールの肖像
「私を非難するより絵に描いてよ」この絵のモデルシュジー・ソリドールの言葉。パリに出てランバンのモデルをつとめたあと、独特な歌声で人気を広めた。自動車免許をとった最初の女性の一人で、同性愛を公言していた。デュフィーやフジタなどに自分の肖像画を描かせて自分の店に飾っていた。その数200以上。恋人でもあったレンピッカの作品は30枚目にあたる。
「自身をなくさないように30枚目の肖像画みたいに見えるよういつも努力してるの」
輪舞のための習作
画家の修行はデッサンから。ロシア美術学校、パリでの修行時代にデッサンを学んだタマラ・レンピッカ。
ウフィッティー美術館にある16世紀イタリアの画家パルミジャニーノの模写。これをもとに”輪舞 ロンド”という油彩画が描かれた。
レンピッカの肖像写真
これらの写真はNYの画廊の玄関に並べられ、訪れる客を迎えた
当時大人気の女優グレタ・ガルヴォ。彼女に間違われたタマラ・レンピッカは滞在したホテルの支配人に頼まれ、ガルヴォのフリをしてサインをしたことがあるとか。
逃亡
再婚相手のクフナー男爵とともにアメリカへ移住した。
「私は早名かな人々に囲まれていたけどいつどこにいても祖国を追われたエトランゼでした。」
修道院長
戦争、世界恐慌とさえない時代、タマラもうつ病になやまされる。
「私は絵筆を手に取る気力さえなく、つきあいやパーティにも疲れきって、何もかもイヤになってしまっていた。この憂鬱をなんとかしようと修道院に入ると決めた。」
そしてイタリアのパルマへ。この絵のモデルとなったのは修道院長
「その顔には世界の苦しみが刻まれていた。あまりに悲しくて部屋を飛び出し、あの表情をどうしても描きたいと追い立てられるように、絵筆を握りました」
マドンナ
「死と破壊がはびこるなか。聖母マリアのような宗教的なテーマを描くことで私は永遠の平和、静けさを見出すことが出来ます」
トンドとよばれる丸い絵。ルーブル美術館にあるミケランジェロの素描に良く似ている。
椅子の上の水差しⅠ
1934年再婚。フランドル・オランダ絵画の優れた絵画を持っており、タマラはそこから様々なインスピレーションを得た。壁にはサインの書き込みの紙きれ。これは16世紀の画家の常套手段。
1939年アメリカへ拠点を移すと、静物画が増える。得意の肖像画は経済状況などから見込めなくなっていた。
「私は自分の作品の最大のコレクターと結婚したの」
手と花
描かれた花たちと腕のない手。このシュるレアリズムは当時の広告手法
パンジーを持つ女性
「芸術家はみんな新しいジャンルやテクニックを試す必要がある。そうすることであらたな展望が開ける。それが何よりも大切なことでしょ」
メキシコでであった色彩を肉厚な画法で表現。タマラ自身テラコッタ様式と呼ぶ。
1961年個展が失敗すると、二度と個展はやらないと決意、それでも絵はかき続けていた。30年近くつれそったクフナーが亡くなると
「私を支えるものは自分だけだと悟ったとき、私に残されたものはただ1つ、ひたすら絵を描くことでした」
美しきラファエラⅢ
美しきラファエラを描いてから50年後のレプリカの作品。
1927年若い画家たちの熱心な要望により開催された回顧展は大成功。これにより、求めに応じてかこの作品のコピーを制作するようになった。
娘のキゼットによると亡くなる2,3日前まで取り組んでいた作品が”美しきラファエラⅢ”だったという。そしてタマラが亡くなったとき、この”美しきラファエラⅢ”と”聖アントニウスⅣ”の二枚の絵が製作中のイーゼルにかけられていた。
「私は少し外れた社会の端っこで生きているの。普通の決まりごとは当てはまらないのよ」
1980年3月18日メキシコのクエルナバカで永眠。遺灰は故人の要望により、活火山ポポカテペトル山の火口付近にまかれた。
http://take-it-ez.at.webry.info/201003/article_16.html
Bunkamuraザ・ミュージアムで3/6-5/9美しき挑発レンピッカ展、本能に生きた伝説の画家を見てきました。私は美術館にいくといつも音声ガイドを利用するのですが、驚きました。なんと、ナレーションは女優の夏木マリさんではないですか。
こんなことなら、もっと早くにこの展覧会にくるべきだったと、己の事前調査力を悔やみました。夏木マリ様による音声ガイド作品は28点で約35分。個性派女優らしく、ナレーションするだけではなく登場人物を演じてくれています。とても贅沢な音声ガイドプログラムなので、この展覧会をご覧になるかたは500円を惜しみなく投資して、夏木マリさんとともにこの贅沢な展覧会を楽しみましょう。タマラ・デ・レンピッカをより深く理解できます。
私が気に入った作品は
「シュジー・ソリドールの肖像」
「マルジョリー・フェリーの肖像」
「緑の服の女」
「自画像(シルクスクリーン版)」
「タデウシュ・ド・レンピッキの肖像」
です。
下記は女優夏木マリさんによる音声ガイドナレーションからピックアップしました。この音声ガイドは本当にオススメです。
中国人
「私は心の命ずるままに生きたかった。いつも新しい空気をすって、刺激を受けて生きたかった」と語るタマラ・レンピッカ。
モーレス・ドニとキュビズムのアンドレ・ロート影響を色濃く受けている。
革命によりロシアからパリに亡命
革命刑務所に拘束された後、夫のタデウシュは働こうともしなかった。そこでタマラの心の支えは一人娘のキゼット。
「絵を二枚売るごとに宝石を買い、腕を宝石で埋め尽くす」タマラは自分にそう誓ったそうです。
ロシア人の踊り子
このころ母、祖母、叔母とともにロシアのサンクトペテルブルグに住む。
18歳でタデウシュと初めての結婚。
ロシアバレー団バクストin Parisの舞台美術のような絵画。
モスクアという演目のバクストデザインによく似ている。
初めて聖体を拝領する少女
娘のキゼットがモデル。左上にはそのごの作品によく登場するハトが描かれている。
芸術展で賞をとったこの作品は彼女のお気に入りでもあり、「モンテカルロでアンディ・ウォーホールに会ったとき、この作品を彼もとても気に入っていた」といいます
ピンクの服を着たキゼット
モデルは当然キゼット。隠すように靴を履いていない左足。そして本の上の豪華客船の背景。
キゼットによると「母は実に奔放な生き方をしました」「有名人や貴族とのパーティから帰ると寝ている私を起こして、パーティの話をした」
エリストフ公の肖像
カーテンの置くはフィレンツェの風景に似ている。右下にはレンピッキT.DE LEMPitzki.という男性名でのサインが残されているのは、まだ女性画家の地位が認められていなかったことをあらわしている。
「1920年代、買い物に行く暇すら惜しんでキャンパスに向かったものよ。絵は次から次へと売れ、パリの社交界は私の話題で持ちきりになったわ。そして彼らは私に肖像画を依頼するの。」
タデウシュ・ド・レンピッキの肖像
「彼への思いは悲喜こもごもで、私の胸を離れなかったわ。それでも幸か不幸か、働かない私の夫のおかげで絵を描くという私の眠っていた才能を呼び覚まされたの。」
タデウシュは初めての夫、一目ぼれの恋を実らせて結婚。
この作品は離婚の瀬戸際当時の作品であったため、のちに描かれるはずであったタデウシュの左手と結婚指輪は描くはずであったが未完のままで残された。
自画像(シルクスクリーン版)
緑色のブガッティ「車を緑色にしたのは、奏したほうがよかったからよ」
タマラは黄色と黒の小さなルノーが愛車だった。運転するときは華やかな黄色のセーターと黒の帽子でコーディネートした。
ある日、シャネルに車でのりつけた彼女を見かけたドイツのファッション誌ディー・ダーナの女性編集長はタマラのセンスに一目ぼれして仕事を依頼。
サン・モリッツ
ディー・ダーメの表紙
モデルはレンピッカのアトリエを訪れた女性。
ニューヨーク
1929年NYの摩天楼の無機質さに魅了され作成。キゼットがたまたまタマラの自伝を読んで、探し出した作品のため60年間日の目をみなかった作品。
ルーファス・ブッフの婚約者の肖像画の依頼でNYへ。ロールス・ロイスでの出向かえからホテルサヴォイへと贅沢な接待がされた。
母性
「美術館で見た15世紀イタリアの絵が気に入った」
「私のモットーは、それは模倣しないこと。独自のスタイル、明るい色彩、そしてモデルがもつ、多彩な気品へと戻ること。
モデルのイーラ・ペーロイはタマラの恋人でもあり、娘のイブリーンを産んだばかり。
イーラ・Pの肖像
「私は画家なのですが、あなたをモデルに描かせていただきたいの」
「私はモデル選びには細かいほうで、ピンとこなければ描く気になれなかったわ。モデルのいいところをひきだし、表情、ファッション、背景、全てを吟味して、1つの美をつくりあげる。それが私の芸術だったの」
緑の服の女
キゼットがモデル。
「イタリアではマニュエリズムの絵にすっかり心を奪われてしまったわ。シャープな線、あざやかな色彩、セザンヌのように、どの色も少しずつまぜるような描き方は好きになれなかったわ。私は鮮明な色をつかって、描きたかったのです」
マルジョリー・フェリーの肖像
歌手マルジョリー・フェリーニの二人目の夫の依頼によって描かれた絵。
1930年代はじめ、画家として絶頂期、離婚後はパリメシャン通りに構えた豪華なアトリエはタマラとその作品のための舞台セットのようなものだった。
「最高をきわめること、それが私の目標。仕事をして成功すれば、お金が入る。最高の個展を開き評価されて豪華なドレスを着ることができる。私はそれを実現したわ。全てゼロから、自分の手で勝ち取ったのよ」
カラーの花束
タマラ・レンピッカが愛した花カラー。白は純真無垢を、中央のめしべはどこかセクシャルな雰囲気を漂わせる。相反するイメージが1つになったレンピッカを象徴するモチーフ。
「何度新しい恋を着替えたことか。夜のマチに美しい男とつれだって、でかけたわ。みんな私の美しさと才能をほめたたえたものよ。でも一番愛していたのは夫だけ。何もかも、なげうって、愛人のもとに走るわけではないの。」
シュジー・ソリドールの肖像
「私を非難するより絵に描いてよ」この絵のモデルシュジー・ソリドールの言葉。パリに出てランバンのモデルをつとめたあと、独特な歌声で人気を広めた。自動車免許をとった最初の女性の一人で、同性愛を公言していた。デュフィーやフジタなどに自分の肖像画を描かせて自分の店に飾っていた。その数200以上。恋人でもあったレンピッカの作品は30枚目にあたる。
「自身をなくさないように30枚目の肖像画みたいに見えるよういつも努力してるの」
輪舞のための習作
画家の修行はデッサンから。ロシア美術学校、パリでの修行時代にデッサンを学んだタマラ・レンピッカ。
ウフィッティー美術館にある16世紀イタリアの画家パルミジャニーノの模写。これをもとに”輪舞 ロンド”という油彩画が描かれた。
レンピッカの肖像写真
これらの写真はNYの画廊の玄関に並べられ、訪れる客を迎えた
当時大人気の女優グレタ・ガルヴォ。彼女に間違われたタマラ・レンピッカは滞在したホテルの支配人に頼まれ、ガルヴォのフリをしてサインをしたことがあるとか。
逃亡
再婚相手のクフナー男爵とともにアメリカへ移住した。
「私は早名かな人々に囲まれていたけどいつどこにいても祖国を追われたエトランゼでした。」
修道院長
戦争、世界恐慌とさえない時代、タマラもうつ病になやまされる。
「私は絵筆を手に取る気力さえなく、つきあいやパーティにも疲れきって、何もかもイヤになってしまっていた。この憂鬱をなんとかしようと修道院に入ると決めた。」
そしてイタリアのパルマへ。この絵のモデルとなったのは修道院長
「その顔には世界の苦しみが刻まれていた。あまりに悲しくて部屋を飛び出し、あの表情をどうしても描きたいと追い立てられるように、絵筆を握りました」
マドンナ
「死と破壊がはびこるなか。聖母マリアのような宗教的なテーマを描くことで私は永遠の平和、静けさを見出すことが出来ます」
トンドとよばれる丸い絵。ルーブル美術館にあるミケランジェロの素描に良く似ている。
椅子の上の水差しⅠ
1934年再婚。フランドル・オランダ絵画の優れた絵画を持っており、タマラはそこから様々なインスピレーションを得た。壁にはサインの書き込みの紙きれ。これは16世紀の画家の常套手段。
1939年アメリカへ拠点を移すと、静物画が増える。得意の肖像画は経済状況などから見込めなくなっていた。
「私は自分の作品の最大のコレクターと結婚したの」
手と花
描かれた花たちと腕のない手。このシュるレアリズムは当時の広告手法
パンジーを持つ女性
「芸術家はみんな新しいジャンルやテクニックを試す必要がある。そうすることであらたな展望が開ける。それが何よりも大切なことでしょ」
メキシコでであった色彩を肉厚な画法で表現。タマラ自身テラコッタ様式と呼ぶ。
1961年個展が失敗すると、二度と個展はやらないと決意、それでも絵はかき続けていた。30年近くつれそったクフナーが亡くなると
「私を支えるものは自分だけだと悟ったとき、私に残されたものはただ1つ、ひたすら絵を描くことでした」
美しきラファエラⅢ
美しきラファエラを描いてから50年後のレプリカの作品。
1927年若い画家たちの熱心な要望により開催された回顧展は大成功。これにより、求めに応じてかこの作品のコピーを制作するようになった。
娘のキゼットによると亡くなる2,3日前まで取り組んでいた作品が”美しきラファエラⅢ”だったという。そしてタマラが亡くなったとき、この”美しきラファエラⅢ”と”聖アントニウスⅣ”の二枚の絵が製作中のイーゼルにかけられていた。
「私は少し外れた社会の端っこで生きているの。普通の決まりごとは当てはまらないのよ」
1980年3月18日メキシコのクエルナバカで永眠。遺灰は故人の要望により、活火山ポポカテペトル山の火口付近にまかれた。






お手軽ながら解説豊富 ...
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